質問スキゾイドとセクシャルマイノリティは相関関係がありますか?
個人的には相関関係はないと思います。セクシャルマイノリティといっても色々な分類がありますし、一つにまとめて論じるのは難しいです。
ただ、恋愛に興味がないアセクシャルはスキゾイドと混同される可能性はあるかもしれません。(アセクシャルは恋愛以外では普通に人付き合いするのでスキゾイドとは異なります)
直接関係はありませんが、セクシャルマイノリティの人がいじめや差別にあい、人間関係の興味が薄れてスキゾイド気質になることはあるかもしれません。
質問スキゾイドの人は嫉妬することはありますか?
不思議なくらい全くないです。羨ましい、いいなと思うことはありますが、許せない、妬ましいといった負の感情はありません。
恋愛の嫉妬もありません。人を束縛するのもされるのも嫌いなスキゾイドは、相手を独り占めしたい、思い通りに動いてほしいという独占欲自体が湧いてこないのだと思います。
また、コミュニティ内の優劣にあまり関心がなく、むしろ面倒で避けたいと思っているので、会社で誰が出世した、近所で誰がお金持ちなんて話を聞いても特に劣等感も湧きません。
人間関係やコミュニティへの興味の薄さが嫉妬のなさにつながっていそうです。
質問スキゾイドじゃあなかったらどんな人生だったんだろうと考えることはありますか?
スキゾイド気質で特に困ったことがないので他の性格になりたいと思ったことはありません。
また、外向型、リア充のような人種が特に羨ましくないというのも大きいです。「友達が沢山いて楽しそう」「毎週遊んでて羨ましい」より「一人になる時間がなくて疲れそう」「遊んで飲んでの生活続けられてすごい」というアスリートや芸能人を見ている感覚で、自分がなりたいとは思いません。
もしスキゾイドでなかったら、ちょっと友達の多い内向型になっていそうです。気の合う友達が多い生活も憧れますが、人間関係が面倒くさそうなのでスキゾイドのままでも不満はないです。
質問他人の外見や言動を馬鹿にする人が苦手です。ふーとさんはどう思いますか?
僕も苦手です。その人の言動に困っていて愚痴るなら分かりますが、全く実害がないのに馬鹿にしてマウントを取ろうとする人はつらいです。
マウント取るタイプは他人に同意を求めるので特に厄介ですね。逃げられる環境ならすぐに距離を取ってしまえばいいのですが、学校や職場など逃げられない環境だと適当に聞き流すしかないです。
一番いいのは人を馬鹿にする文化がない環境に身を置くことかなと思います。
質問信じているものはありますか。あるとすればそれはなんですか。ないとすれば今後信じられるようになるかもしれないものを、よろしければ教えてください。
宗教的なものは信じていません。かといってお金や自分を信じているかと言われると違う気がします。
強いて言えば、絶対信じられるものはないと信じています。何も信じられないという訳ではなく、期待していたことが思い通りにならなくても「まあそういうものかな」とただ事実を事実として捉える感覚です。ある意味宗教の「神にすべて委ねる」に近いかもしれませんね。
今後信じられるようになるかもしれないものは思いつかないです。ただ年を取ることで心境の変化はあるかもしれません。
信じるとは違いますが、安心を得たいのであれば自分の素が出せる居場所、大事な人やペットができるといいですね。人間関係を作るのは大変かもしれませんが、犬や猫を飼う、交流会に来てみるというのはオススメです。
コメント
『信じる』という行為は、スキゾイド的には普通の人と全く違う意味を持つかも知れません。
例えば、普通の人が誰かを『愛する』というとき、それは『信じる』ということでしょう。
スキゾイドである私は、心の奥底で他人には拒絶されるかも知れない。取り返しのつかない心理的な負荷を受けることを避けるため、あらかじめそのような人間関係を築こうとしないという防御が徹底しています。そのため、掛け値無しに誰かを信じたり愛したりということは不可能のように思われます。
では、信じるものが何もないかと言えば、それも違います。スキゾイドは自分を信じています。もっと細かく表現すれば、自分の思考を通して理解したものに対して信を置きます。『信じる』とは、自己の内面で綿密にシュミレーションされる事象や物事が、ある心理的な満足を超えるしきい値を越えてくれる場合に、私にとって結果が満足となる物事に対して付与されるものです。ようするに、やってみなければ分からないけれど、期待値が十分に見込めるものを『信じ』ます。それが見込めないか、少しでも失敗することが自己の不利益になるものに対しては、著しく嗅覚が発達しており、避けようとします。スキゾイドが他人を『信じる』ためには、あまりにも他人は不確実性が多すぎる存在に見えます。それでも普通の人は、もし自己のシュミレーションと結果が違ったとしても、相手を受け入れる余地があります。そこで愛が成り立ちます。スキゾイドにこの発想はあり得ません。
それに対して、宗教などは信じる可能性があると言えるでしょう。なぜなら、神を信じるということは、自己の内面で全て完結できる行為であるからです。神と私の対話ということになり、他人が介在する余地はありません。この場合も、普通の人が盲目的あるいは狂信的に、一方的に教義なりポリシーを全面的に受け入れてその世界に浸かってしまうような信じ方はしません。必ず自己の思考プロセスを経て、理解したものだけを信じると思います。ちなみに私は仏教(ブッダの説く原始仏教)の教えに、かなりハマっております。念仏をひたすら唱えれば救われる、のような通俗的な理解やアプローチはしません。空とは何か。どんな概念なのか。ブッダは魂を否定しているが、何を根拠にそう断じたか。インドの古代ウパニシャッドとの関係はどうか。現代ヒンディーの中での位置付けとは。などなど。あくまで哲学的な要素から読み解こうとします。超自然的な面からは興味がありませんので、誰それが奇跡を起こして病や病気が治ったとか、そういう類の話は別世界の物事とみなします。あくまで理性の範疇で自分の思考が追いつく範囲内で信じます。こう書くと、「あなたは本当に仏教を信じているとは言えない」とか何とか批判的なことをいう人が必ず現れますが、それもほぼ想定内です。そういう手合いには勝手に言わせておけばいい、という立場が1ミリたりとも動くことはありません。私が仏教を信じるかどうかは私の問題であり、他人は関係ないからです。
同様に私以外のスキゾイドの同胞は、それぞれに『信じ』た世界観をみんな持っていると思います。